奥成大輔(オクナリダイスケ)のプロフィール

奥成大輔

ブログオーナー 奥成大輔のプロフィール

最初に公式プロフィールから。

奥成大輔(オクナリダイスケ)

どろっぷしっぴんぐ研究所代表
もしも大学公認講師※1
Web・ネットショップ コンサルタント

1968年生まれ。神奈川県藤沢市出身、栃木県那須烏山市在住。
1992年、大学卒業後(株)本田技術研究所に入社。
2002年に豊かな自然と環境の良さにひかれ、清流と緑のまち那須烏山市に移住する。
2008年、ライフスタイルを見直すことがきっかけで退社し独立。

退職後、全くの畑違いながらWebサイト運営事業を開始。
2009年1月にもしもドロップシッピングを利用したネットショップ運営を始める。
2010年1月よりもしも大学公認講師※1 に認定。
どろっぷしっぴんぐ研究所を設立し、ネットショップの教育活動を開始。
講座を通じて初売上達成者の方から月商200万円を超えるショップオーナーまで多数輩出。
もしもドロップシッピング10周年記念イベントでは公認講師部門で表彰。

※1 株式会社もしもが運営するもしもドロップシッピング、もしもアフィリエイトについてインストラクション知識を持つ講師

幼少期(0-9歳)乗り物が好き、エメラルドグリーンが好き

1968年6月15日 横浜国立病院で生まれる。出身は神奈川県藤沢市。

夢はダンプカーの運転手、愛読書は『ちいさいおうち』

物心をついた頃からクルマ・乗り物が大好きで、家の窓からたくさんのダンプカーがひっきりなしに来るのを見ていて将来の夢はダンプカーの運転手でした。

絵本は『きかんしゃやえもん』『泣いた赤おに』『ちいさいおうち』を読んで育ちます。

中でも「ちいさいおうち」の都会ではなく田舎の閑静な暮らしという世界観がいまの自分の価値観「自由で穏やかな暮らし」につながっていることに最近気づきました。

その「ちいさいおうち」の表紙の色がエメラルドグリーンで、シティカブリオレのマイアミブルーの色やチョコミントアイスクリームが好きなのはその影響かもしれません。

イギリスの暮らしとチョコミント好きの起源

幼稚園年少のときに、父の仕事の関係で英国のクロイドンで過ごします。

話を少し戻しますが、チョコミントアイスといえば、イギリスの高級チョコレートに「After Eight」というミントが入ったチョコレートがあります。文字通り夜の8時以降に食べる大人のチョコレートです。
チョコミントアイスを食べるとチョコとミントの風味が同時に訪れる味わいが「After Eight」を連想させます。

その「After Eight」、当然こどものぼくには自由にパクパク食べられるほど与えられることはなく、憧れのチョコレートだったのです。

クロイドンのプライマリースクールに通う

イギリスでは5歳から学校に通うため、現地のプライマリースクールに通っていました。

恐らくですが、結構わがままを言って、先生を困らせていたような気がします。

クリスマスに演じた『We Three Kings(東方の三博士)』という劇では主役の3番目の王に抜擢されるも、3番目の王のセリフが多すぎて、1番の王の役でないといやだとダダをこね、東洋人ながら1番目立つ主役を横取りするというわがままっぷりでした。

他にも運動会でインチキをして「clever boy!」とほめられたこととか、また機会があれば書きたいと思います。

なんと、体育の授業がサッカーの試合

イギリスらしいといえば、体育の授業はサッカーでした。
ちゃんとユニフォームとスパイクを履いて、体育の授業に臨みます。

といっても、5、6歳のクラスですから何かを教えてもらうという感じではなく、ゲーム形式での試合を思い思いのポジションでプレーを楽しむだけでした。なんて自由なんだ!

サッカーなんてしたことがありませんでしたし、ポジションもよく知らないので残ったバックス(今でいうディフェンダーです)のポジションで、来たボールを思いっきり蹴るだけでしたね。

楽しかったFord Cortina GXLでのドライブ

日本では自家用車を持たなかった父もイギリスではガンメタリックのカラーのFord Cortina GXLというクルマを購入し、南はブライトン、西はランズエンドやバース、北はスコットランドといろいろなところに連れて行ってくれるのが嬉しかったことを覚えています。

日本に帰国、スーパーカーブーム

小学校2年の春に日本に帰国。

スーパーカーブームが訪れつつある頃で、教室の後ろの図書コーナーにはなぜか『サーキットの狼』があり夢中になって読んだものです。
放課後は毎日公園で野球をするかスーパーカー消しゴムのレースでしたね。

TV番組ではアニメ『アローエンブレム グランプリの鷹』が大好きでした。

10代 上には上がいる、自分が進むべき道を模索

日本での最初のチャレンジはサッカー

小学校4年生になると、サッカーチームに入れるようになります。
あまり積極的に自分から始めたわけではありませんでしたが、サッカーチームに入ります。

キックを遠くに飛ばすことは上手だったので、日本でもバックスです。
最初はセンターバックでしたが、臆病な性格から消極的なプレーが目立ち、右のサイドバックにコンバートされます。

僕らの学校では、学年毎にチームが2つありましたが、卒業するまで強い方のAチームでレギュラーとして試合に出してもらっていました。

タイトルこそ取れませんでしたが、市のリーグ戦では一番上のリーグに参戦して、県大会のブロック戦では時々勝ち抜けるようなそこそこ強いチームだったように記憶しています。

しかし、上には上がいるもので、サッカーを続けていくモチベーションはありませんでした。

中学はバスケットボール

そこで、中学では、バスケ部に入ります。

サッカーでの運動経験と自分の身長(小学校ではいつも後ろの方でした)を生かして、バスケでもレギュラーメンバーに入ります。

僕ら世代のデビュー戦の市長杯では、確かいきなりベスト4まで行ったような気がしますが、その後の成績は印象に残っていません。

むしろ、部活の練習が終わって家に急いで帰ってガンダムの再放送を見るのが楽しみでした。

当時、ガンダム以外でもアニメ映画『宇宙戦艦ヤマト』『幻魔大戦』『クラッシャージョウ』の3つがほぼ同時期に公開されてました。

この頃まで、本はほとんど読まなかったのですが、中でも『クラッシャージョウ』が好きで小説をシリーズで読んだのがきっかけで、読書好きになりました。

江ノ電で海の前にある高校へ通う

高校は江ノ電で通う、海の前にある七里ガ浜高校へ。

バスケ部の先輩に声を掛けられるものの、バスケを続ける気がなく見学にも行きませんでした。
野球同好会に入会し、楽しそうな雰囲気を感じるものの野球はあまり向いていないように感じて1週間で退会。

その代り、1年生のときに仲良くなった友達がオートバイが好きで、当時活発だった「三ない運動」の真っ只中、バイクに関心を持ちます。

1年生の冬休みに原付免許を取り、スズキのRG50Eという50ccのギヤ付きの原付バイクを中古で4万円で購入。

高校2年生の夏には、鈴鹿8時間耐久レースの観戦に鈴鹿サーキットまで神奈川県からはるばるこの原付バイクで行きます。

RG50Eは鈴鹿8耐の帰りにチェーンが外れたり、トラブルが続出。
その後はもう乗ることはなく、廃車になりました。

バイクに熱中、モータースポーツに心惹かれる毎日

マンガ『バリバリ伝説』『ふたり鷹』や小説『汚れた英雄』の主人公、モリワキエンジニアリングのスターライダーの宮城光さんに憧れたものです。

自分も中型免許を取って早く400ccの大きいバイクに乗りたいとアルバイトに勤しみ、ホンダCBX400Fに乗るようになります。

そんなバイク少年だったので、学校はほぼ登校していたものの勉強するわけでもなく、アルバイトをしながら日々海辺のバイクとクルマが好きで唄が上手なマスターがいる喫茶店へ通う毎日。

「高校を卒業したら自分も就職して、働きながらオートバイのレースをする」

というはかない夢を思い描きながらモータースポーツに心惹かれる毎日を過ごします。

しかし、その夢は周囲に猛反対され、結局チャレンジすることはありませんでした。

初めて心の底から挑戦したかったことを志すも可能性にチャレンジせず、チャンスさえも自らフイにしてしまったことは大きな後悔です。

浪人して代ゼミに通う

レースの夢ははかなくも、次は自動車のエンジニアになるべく、機械工学科志望で大学受験。
まったく勉強していないので落ちこぼれもいいところで、数打っても当たるはずはなく浪人です。

そして、予備校といえば代ゼミに通います。
近くの大船校もあったのですが、目指すからには志高く代々木の本校です。

そして1年後、苦手な数学と物理も0点は回避できるようになり、スレスレで東海大学だけ受かりました。

バイク好き、クルマ好きばかりの動力機械工学科

大学の学科は動力機械工学科という学科で、周囲はバイク好き、クルマ好きばかりで楽しい毎日。

技術的にはバイクよりもクルマが面白そうで、普通免許を取るとクルマに乗り始めます。

モータースポーツといえば、当時はホンダF1が躍進している頃で、圧倒的な強さを誇っていました。
私が予備校に通っている年には中嶋悟さんもF1デビュー。

もう、自分がレースをする夢はあきらめていますから、
「ホンダってすげーな!」
「あんな会社に入りたいな」
と憧れたものです。

なので、当然最初のクルマもホンダ・シビックでした。

20代 憧れのホンダへ、しかし葛藤と戦う日々

機械工学の勉強に励んだ大学時代

大学に入ると遊ぶ人が多いですが、結構勉強していました。

というのも、自動車メーカーに入ってクルマを作るために大学に進学したのですから、どんな授業もワクワクしたものでした。

なかでも実験とか設計・製図とか楽しかったですね。

そして、勉強のかいもあり、本田技研工業株式会社に内定をいただきます。
本田宗一郎さんが亡くなった年です。

鈴鹿サーキットでのホンダ入社式は伝統の白い作業着

鈴鹿サーキットでの入社式はホンダの白い作業着です。

浜松での3ヶ月工場実習、生まれ故郷の藤沢での営業実習3ヶ月を経て、秋に4輪の研究開発を行う株式会社本田技術研究所の栃木研究所に配属され栃木県高根沢町に移住します。

大学の卒論テーマが『円筒シェルの固有振動と振動特性に関する調査・研究』だったためか、振動騒音専門の研究開発ブロックに配属されます。

その後、約16年間、ホンダでの仕事は振動騒音開発一筋です。

会社員としての人生を楽しむ日々

会社の仲間と遊ぶことも多く、プレイドライブというラリーの雑誌の企画に参加したり、ミニ四駆に熱中したりしたものです。

日本が初めて出場したワールドカップフランス大会の頃には、会社の部署毎にサッカーチームがたくさんできて、週末に試合をするのが楽しかったですね。

その頃から妻も一緒に住んでいたので、猫や犬たちと一緒の暮しも始まりました。

30代 カートレースとホンダでの仕事の集大成

会社の仕事で一番思い出に残るプロジェクトリーダー

29歳のときには新規格の軽自動車の多数の機種のプロジェクトリーダーに任命されます。
一緒に仕事をしていた先輩がより責任のある立場になり、軽自動車の振動騒音開発に力を注いでいた私を自分の後任に推薦してくれたのです。

ダンク・ライフ・バモス・アクティトラック・アクティバンなど機種が多くて大変でしたが、新しい仕事にやりがいを感じたものです。

最初は責任の重さに押しつぶされそうでしたが、振り返ると会社での仕事の中でも、一番思い出に残る仕事です。

急に降って湧いたカートレースデビュー

その同じ頃にまた会社の別の先輩が私がモータースポーツが好きなことを知ってレーシングカートに誘ってくれます。

最初はサーキットをみんなの共用のレーシングカートで楽しく走るだけでしたが、
「奥成っ!来週はレースだから!」
と言われるがままに、カートレースにエントリー。

急に降って湧いた昔夢にまで見たレースデビューは突然やってきます。

嬉しくもあり、恐くもあり、ドキドキしながら出場したはじめてのレース。
いきなり3位でフィニッシュして表彰台に載ります。

そして、シャンパンファイトに表彰式。

これでレースにハマらないわけがないですよね。
そこから徐々にレーシングカートに夢中になっていきます。

今日はここまでです。

このプロフィールページについては、今後も随時更新していきます。
昔の写真なども残っているはずなので、当時の写真に爆笑するのもありかもしれません。

今後の目次(予定)

以降はこんな感じで予定しています。

30代 カートレースとホンダでの仕事の集大成

40代 価値観のルネッサンス

50代 「自由に穏やかに暮らそう」の体現

60代 日々穏やかな海を眺めながら過ごしたい

奥成大輔

ABOUTこの記事をかいた人

奥成 大輔

1968年神奈川県生まれ、栃木県那須烏山市在住 1992年、大学卒業後(株)本田技術研究所に入社。 2002年に豊かな自然と環境の良さにひかれ那須烏山市に移住する。 2008年、ライフスタイルを見直すことがきっかけで退社し独立。 2010年1月より「個人の働き方の常識を変え、ライフスタイルを革新する」をテーマにもしも大学公認講師としてドロップシッピング教育活動を開始。 講座を通じて、初売上達成者の方から月商100万円を超えるショップオーナー様まで多数輩出。 もしもドロップシッピング10周年記念イベントでは公認講師部門で表彰。 どろっぷしっぴんぐ研究所代表。